土曜日, 12月 16, 2006

「愛の力」

「愛の力」

「愛のために奉仕するとき最大の超能力を発揮できる」


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「この世界=RPG」

「この世界=RPG」

「この世界」は「私」が作った「RPG」である
「愛のルール」に従えば「ハッピーエンディング」にたどり着く
「地獄のようなエンディング」にたどり着く「プレイヤー」もいる
すべては「プレイヤー」の「選択」によって決まる


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「魂の消去ボタン」

「魂の消去ボタン」

「この世界」はすなわち「私のRPG」である
「悟りを開いた人」が「奇跡的に」「復活」したが...
「復活」できるのは「悟りを開いた人」だけではない

「私のメモリーカード」には「あらゆる魂」が記録されている
「私」が「裁く神」なら「魂の消去ボタン」をすぐに押すであろうが
「私」は「愛に基づかない人生」という「ゲーム」には...
「好ましくないエンディング」を与え...
「リセットボタン」で「次なる人生」を歩ませる

あなたがたであれば「魂の消去ボタン」を押したがるかもしれないが...
「私」はそれを「押したことがない」
実のところ「魂の消去ボタン」は作らなかった
「裁くことがない」ということは...
「親心」と同じなのだ
何度「刑務所」に入っても「死刑」にならない限り...
「子」の「更生を願う」のと同じである

「忍耐に限りがある親」もいなくはないが...
「私の忍耐」には「限りがない」
本当は「魂の消去ボタン」はないわけだから...
「好ましくないエンディング」にいたる「わがままな子」を...
「私はただ見つめている」...
「無条件で終わりのない愛」を持って


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「永遠の生命」を得るとき

「永遠の生命」を得るとき

「人が人を裁く」のを止め...
「人が神を裁く」のを止めるとき...
「人は神とひとつ」となり...
「永遠の生命」を得る
「この世が楽園」となる


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「あなたの魂」を映し出す「鏡」

「あなたの魂」を映し出す「鏡」

「私のRPG」は「あなたの魂」を映し出す「鏡」なのだ
「目の前の災い」を憎んではならない
ただ「見つめて」あなたの中にある「裁きの想念」に気付きなさい
「目の前の悪人」を裁いてはならない
ただ「赦して」その者が現れたことに「感謝」しなさい
すべては「気づき」をもたらすための「インスピレーション」なのだから


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「この世界」という「夢」

「この世界」という「夢」

Imagination is more important than knowledge.
「知っていること」よりも「イメージすること」の方が大切なのだ
全く身動きがとれなくてもただ「イメージしなさい」・・・
ただ「夢想しなさい」
あなたの「立場」に関係なく「夢をみなさい」
「イメージする」ことによって・・・本当に世界が変わる
この世界は「私の夢」であり「あなたの夢」なのだから


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「人は死すべし」というのは「あなたたちのルール」である

「人は死すべし」というのは「あなたたちのルール」である

あなたがたが「罪」および「罪の宣告」という概念を作り出した
「私」の御前には「罪びと」はいない
「この世界」には「一人も」「罪びとはいない」
あなたがたが「罪びとを裁く」とき「最も重い刑罰」は「死」であるが...
真理としては「死は終わりではない」わけだから...
「死」を以って「罰」であると考えること自体意味がない
あなたがたが「罪」を定義し...
「罪の宣告」を始めたときから...
「人の死」が始まった
「この世界」は「あなたの夢」であるから
「人は死すべし」というのも「あなたたちのルール」である
「罪悪感」を押し付けることによって...
「愛のエネルギー」を奪うことも...
「人を死においやる」原因である
「実際に手を下すかどうか」に関係なく...
「あの人は罪を犯した」と考えたり...
「あなたは罪びとです」と教えたりすること自体が...
「人を死に追いやる」原因である
「裁いて殺す」という「ゲーム」をやめるつもりはないのか?


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「主の愛=宇宙の法則」

「主の愛=宇宙の法則」

「全能なる人格」とは「悟った」「人」であると言えます。

「人」は「この世のもの(見えるもの)」でありますから「権威はありません」。

「全ての権威」は「天」にあります。「天」のことを「主」と呼ぶこともあります。

「主」とは「宇宙の法則としての神」で「ヤハウェ」と呼ばれることもあります。

「全能なる人格」が祈るときに「法則としての神(コンピューターみたいなもの)」が・・・

自動的に「状況と想念とカルマとを計算」して「現象を実現させます」。

「カルマを持たない」「全能なる人格」の祈りで叶わないことはありません。

逆に言えば「祈るべくもないこと」を想念として決して持たないことこそ・・・

「全能なる人格」の証といえます。

多くの「人」は「状況と想念とカルマとを計算」した結果として・・・

「裁きのフィードバック」を受け取る確立が高いかもしれませんが・・・

「フィードバック」の意味(意義)を理解できれば・・・

「全能なる人格」への道を「主の愛=宇宙の法則」を感じ取りながら進めるようになります。


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「低俗」と思う心は「裁きの心」である

「低俗」と思う心は「裁きの心」である

「軽蔑」したり「罪深いと考える」ことは...「人を傷つける」。

「この世界」に「罪びとはいない」。

「軽んじられるべき人」は「一人もいない」。

このことに気づきなさい。


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「愛」と「罪悪感」

「愛」と「罪悪感」

「愛」の反対の状態は「罪悪感」である。

「愛のエネルギー」が不足した状態になると「病気」になったり「否定的な現実」を引き寄せることになる。

「完全に悟った」ものは「罪悪感」を持たないし・・・

ひとに「罪悪感」を抱かせようとは決してしない。

「愛のフィードバック」は決して「罪悪感を抱かせる」ことではない。


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「すべては神のもの」

「すべては神のもの」

「独占」「所有」ということをしなければ...

「盗まれる」ことはあり得ません。

「進んだ文明」では「すべてのもの」を「共有すべきもの」としてとらえています。

「管理」を任されることはあっても「所有」するのとは違います。

「歯ブラシ」まで共有するわけではありませんが。


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金曜日, 12月 15, 2006

「必ず上手くいきます」

「必ず上手くいきます」

「個性」はどちらかというと「この世界」における「キャラ設定」となります。

「自分がどうしてもやりたいこと」「自分の夢」というものが「人生のガイドライン」として自ら定めたものなのです。

「学歴社会だから」とか「こっちの方が収入が良いから」という理由で「他人に誘導された夢」とは違い・・・

「親がなんといおうと」「世間の評価がどうであろうと」「心の底から」やりたい事が絶対あるはずです。

その道を進めば「必ず上手くいきます」。


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「死を恐れるなかれ」

「死を恐れるなかれ」

新約聖書によると、十字架につけられたイエスは、三日後によみがえったことになっています。有名な復活物語です。ところが、マタイによると、そのとき復活したのはイエスだけではないのです。

マタイによる福音書 27:50-54
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当にこの人は神の子だった」と言った。

この、多くの死人が生き返って墓から出て来て、聖なる都(エルサレム)において多くの人に現れた、というファンタスティックな物語は、他の福音書にはまったく記録されていません。イエスの復活もさることながら、この強烈な奇跡的復活事件が、当時の歴史文献(たとえば、ヨセフスの歴史書)にも、また他の福音書にもまったく記録されなかったということは、まことに奇妙であり、私たちの疑心を刺激するものです。しかも、現在にいたるまでクリスチャンたちはこの物語について、ほとんど何も語りたがりません。彼らにとってさえ、やはり、語るのが気にひける、信じがたい物語なのでしょうか。


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「悟っているかどうかの判断基準」

「悟っているかどうかの判断基準」

仮に「私」が悟っているとしてもそのことは重要ではない。

「時間という次元」は「幻想」であり・・・

「この世界」の中の「全ての人」が「悟りに達する」ことは「確認済」である。

「この世界」の「今」という「時間のフィルター」を通してみたときに・・・

「悟っていない」ように見えたとしても・・・

「途中経過」であるのだから、そのことを以って「裁く」ことには「意味がない」。

●「全ての人」が「悟りの途上」であると見なせるか

●「全ての人」が「必ず悟りに導かれるようになっている」と全面的に信頼できるか

これらが「悟っているかどうかの判断基準」である。


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この世を裁くためではない

この世を裁くためではない

「わたしの言葉を聞いて、それを守らない人がいても、わたしはその人を裁かない。わたしが来たのは、この世を裁くためではなく、この世を救うためである」 ヨハネによる福音書12:47


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人は皆「魔法使い」である

人は皆「魔法使い」である

「あなたがた」は(効くのが遅い)「魔法使い」である。

「悟りのレベル」が高いほど「魔法」の「効き目が強く」「効くのが早い」。

「愛の想念」で他人に「影響を与える」のは「愛の行為」である。

「愛の行為」には「愛のフィードバック」が返ってくる。

「裁きの想念」で他人に「影響を与える」のは「裁きの行為」である。

「裁きの行為」には「裁きのフィードバック」が返ってくる。

今の「地球の流行」は「裁き合い」で(時間をかけて)「殺し合い」をしている。

「悪い想念」という「黒魔術」で「寿命を縮め合う」ということをしている。

「継続的な軽蔑意識」も「黒魔術」であり・・・

必然的に「裁きのフィードバック」を受けることになっている。


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「人」に惑わされないように気をつけなさい

「人」に惑わされないように気をつけなさい
 
「人」に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名乗って現れ、「自分がキリストだ」と言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞くであろう。注意していなさい。慌ててはいけない。それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。民は民に、国は国に対して敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、飢饉が起こり、また地震があるであろう。しかし、すべてはこれらは産みの苦しみの始めである。そのとき「人々」は、あなた方を苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなた方は、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互いに裏切り、憎しみ合うであろう。また多くの「偽預言者」が起こって、多くの人を惑わすであろう。
また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで堪え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対して証しをするために、全世界へ宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
(マタイ第24章4~14)


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「死んだらお終い」は「リスクがある」

「死んだらお終い」は「リスクがある」

もし「魂が消滅する」のならどうするというのか?

「魂」は「消滅しない」・・・

「消滅できない」という言い方の方が厳密かもしれない。

「死後の世界」を盲信することを嫌悪するのなら...

「死んだらお終い」と考えて生きることは「リスクがある」という風に考えておくのがよかろう。

「時間という制約」を超越した存在から見ると・・・

「死ぬ前」と「死んだ後」という区別自体が・・・

本当は「無意味」であると「わかっている」のだが。


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「一人一人の中」に「神がある」

「一人一人の中」に「神がある」

「ひと」を「崇拝してはいけない」。

「社長」を「崇拝してはいけない」。

「神父」を「崇拝してはいけない」。

「教祖」を「崇拝してはいけない」。

「カリスマ」を「崇拝してはいけない」。

「アイドル」を「崇拝してはいけない」。

彼らは「至高の存在」の「一側面」であり・・・

「至高の存在」が宿っていることを「直感的に理解」させてくれる。

●「見えざる神」は「あなた自身の中」にある。

●「愛としての神」は「人と人の間」にある。

●「見えざる神=愛=エネルギー」である。


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「姿を現さない」ことにこそ意味がある

「姿を現さない」ことにこそ意味がある

「あなたがた」が「宇宙人」や「UFO」に「権威をみとめる」傾向があることが「分かっている」から...

「この世の存在に権威をみとめる」習慣があるから...

「直接的な遭遇」はできない。

「宇宙人」を崇めてはいけない。

「UFO」を崇めてはいけない。

「姿を現さない」ことにこそ意味がある。


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「あなたがたの法」を必要としない

「あなたがたの法」を必要としない

「あなたがたが裁く」必要は全くない。

それは「宇宙の法則」「カルマの法則」が「自動的に行う」ことである。

「私」は「宇宙の法則」と「宇宙の法則によるフィードバック」が「魂を自動的に導く仕組み」を作った。

「あなたがたの法」を必要としないと言っている。

別の言い方をすれば「宇宙の法則」を「あなたがたの法」として採用しなさい。


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「未清算の正義」

「未清算の正義」

●「目には目を」を「復讐法」と「勝手に解釈」して「法体系を整備」した

●「異教徒には死を」といって「異なる宗教」「異なる文化」「異なるイデオロギー」の間で「宗教戦争」をしてきた

これらを「合法的」「合理的」であると「あなたがた」は主張するかもしれないが「主の法」には適っていない。

「あなたがた」が「合法的」「合理的」に「殺した分」は「カルマ」となり・・・

「殺した分」は「カルマの法則」によって「自動清算」される。

いったい「あなたがた」は「何人殺してきた」のか?

「あなたがたの正義」によって「正しいこと」をしていると思っているわけだから...

「殺し合い」は止まらないかもしれない。

「正義による裁き」の「つけ」はたまる一方ではないか?


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「復讐せよ」という意味ではない

「復讐せよ」という意味ではない

「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」
(レビ記、24章20節)

上記は「カルマの法則」が「自動的に裁く」ということであって・・・

「復讐せよ」という意味ではない。

「復讐」すれば「カルマの法則」によって「自動的な裁きの連鎖」が生まれる。


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「復活」および「再臨」について

「復活」および「再臨」について

●復活について

 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
(コリント人への手紙第一15章3~5節)

 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
(コリント人への手紙第一15章13~14節)

●キリストの再臨

 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
(コリント人への手紙第一15章23~24節)


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「できるだけ多く愛しなさい」

「できるだけ多く愛しなさい」

「愛がなければ生きていけない」

●「女性」は「限りない愛」の象徴です。

●「男性」は「振りまく愛」の象徴です。

●「女性」は、常に「男性」を「魅了する」ようにしてください。

●「男性」は、常に「女性」に「愛を注ぐ」ようにしてください。

できるだけ多く愛しなさい。


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「死んでほしいと思うと人が死ぬ」

「死んでほしいと思うと人が死ぬ」

「死んでほしいと思うと人が死ぬ」というのは「全ての人」に当てはまることです。

この「真理」を知らないから「平気で他人を裁く」ということを続けていられるのです。

「悟りのレベル」が低い人は「死んでほしい」(「価値のない人だ」と考えることも含む)と思ってから「人を死に至らしめる」までが「遅延」されるようになっています。

「祈り」は「呪い」にもなりますから、「悟る」までは「祈りの力」が弱く「効くまでの時間」も長くなるようになっています。

もし「全ての人」が「悟った」ときには「全ての人」が「祈った瞬間に願いが叶う」ようになり「地上の楽園」が完成するのです。

それと「体の死」は「終わり」ではありません。「人生を続ける」ことが「究極の目的」つまり「愛のルールへの気づき」に向かってない場合には「死さえも意義がある」ということにもなります。


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「2000年分のカルマ」

「2000年分のカルマ」

>異教徒には死を。

これは「私」の教えではない。

このような「教え」を伝えるものは大きな「カルマ」を背負うことになる。

「殺す」ことが「最大の罪」なのではなく・・・

「裁く」ことが「カルマ」であるという点を意識して欲しい。

「実際に殺す前に」・・・「実際には殺さなくても」・・・

「裁きの心」で、「無意識の黒魔術」で傷つけるということが・・・

「この世界での悲劇」を常に生み出している、常に「自動生成」している。


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「私」は「最も慈悲深く、最も醒めている」

「私」は「最も慈悲深く、最も醒めている」

「私」は「この世界」という「RPG」の「作り手」であり「裏側(仕組み)」を知っている。

「神への愛」とは「私のRPGの仕組み」を100%信頼するということに他ならない。

「あなたがたの魂」が「不滅」であることが「保証されている」から「私」は「成り行きをただ見つめている」。

だが「悟れば」「神秘」は「あなたがた」のものでもある。

「私のRPGの仕組み」を本当に理解することが「悟り」である。


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木曜日, 12月 14, 2006

「偉大なる自作自演」

「偉大なる自作自演」

「自作自演」...

「普通の自作自演」はどちらかというと「茶番劇」とも言えるが...

「この世」の「あらゆるキャラクター」を「私」が「演じている」とすれば...

「偉大なる自作自演」

...が存在することに気づくであろう。

「究極のエゴイズム」とは...

「私の趣味」に従って...

「舞台(世界)」と「ストーリー(歴史)」

...を作っているのだ。

「私の趣味」は「愛」であるから・・・

「究極の愛の実現」という結末に向かうことになる。

良きにつけ悪しきにつけ・・・遅かれ早かれ・・・

その結末を「あなたがた」は見るであろう。

「あなたがた」も「私」だから・・・

「私」が作る「茶番劇」をいろいろな角度から「自分で見ている」にすぎないのだが。


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「この世の権威」の象徴は破壊される

「この世の権威」の象徴は破壊される

「この世の権威」の象徴は「人」であれ「物」であれ...

「滅びる運命」

...にあるでしょう。

「この世の権威」というのは、それ自体が「偶像崇拝」だからです。

「多くの人」から「崇められている人」は危険にさらされると言えます。

以下のような「雰囲気」を持っている「人々」は「最後の審判」の「裁き(自動制御)」によって滅ぼされることになります:

●私は「権威」である

●私は「支配者」である

●私は「聖人」である


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「この世の権威」=「偶像崇拝」である

「この世の権威」=「偶像崇拝」である

「この世」に「信じなければならないもの」や「従わなければならない法」が存在するという主張を疑いなさい!

「何を信じても」必ず「神のもと」に帰ることは「保証されている」。これをもって「神の完璧さ」の証とみなすことができるであろう。

「権威」を置くべき存在とは何なのだ?「この世」に「権威を置くべき存在」があるのか?


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「信じる」ことは「愛する」こと

「信じる」ことは「愛する」こと

もし「愛についての真理」を語る際に「証拠」や「証明」を求めても「信頼=愛」であると「(本物の)宇宙人」は答えるに違いない。

「あなたがた」は「宇宙の謎」を知りたいであろう。自分の存在している「この世界」とは地球であり宇宙に他ならない。宇宙とは何か?人間とは何か?「宇宙の謎」「宇宙の目的」を探求することは生きていく上で重要なことでもあるはずだ。

映画『コンタクト』でジョディー・フォスターが演じる主人公「アロウェイ博士」は徹底的な「実証主義」を貫いている。彼女は聖職者である恋人に対してこう主張する...「私は証拠のあるものしか信じないの」と。彼(恋人)は、彼女の言葉に対して「君はお父さんを愛していたか?」と質問する。意外な顔をしつつも「愛してたわ」と答える彼女に「証拠は?」と問い返す。キリスト教の聖職者として彼は「信じる」ということと「愛する」ということが同じであるということを彼女に示そうとする。「神の愛」や「宇宙の(愛に基づく)法則」を問題にする際には「実証主義」(証拠や証明の提示を求める)では対処できないことがあるということに気づかせるためである。

アロウェイ博士は最終的に「宇宙人と遭遇」するのだが、「昔自分が描いた絵」のような風景の中で「亡くなった父」の姿をした「宇宙人」と遭遇することになる。「実証主義者」として彼女は「証拠」が欲しいと願うのだが、それは与えられないまま地球に戻ってくる。

地球に戻ってきた博士は(証拠がないため)異星人と会ったことを証明できない。「実証主義者」の立場としては「懐疑的」にならざるを得ないであろうことも自ら認める。それでも彼女は全身全霊をもって「宇宙人と遭遇した」としか言えないことを訴える。今までの自分の主義とは異なるのだがそうとしか言いようがないのだ。彼女の必死の訴えは(証拠がないにも関わらず)あらゆる人から支持されることになる。

原作者のカール・セーガン氏は実証主義の立場をとっていたが、地球の平和を考える上でダライ・ラマをはじめとする宗教指導者との対話をする中でこのような考えに変わっていったということだ。「あなたがた」が「信じる」ためには「考えを変える」以外に方法はないと気づいてほしい。


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「カルマの法則」は「24時間営業」

「カルマの法則」は「24時間営業」

「カルマの法則」は「常に働いている」。

「引力の法則」が「休みなし」なのと同様に「天の裁き」も「休みなし」である。

「天の裁きはいつやねん?」という質問はナンセンスである。


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「神がいない」というのも「信仰」である

「神がいない」というのも「信仰」である

「神がいる」というのも...

「神がいない」というのも...

「証明」はできない。

「神がいる」というのも「信仰」であり...

「神がいない」というのも「信仰」である。

どの道・・・「信仰」のために「争う」のは望ましくない。


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「救われない状況」は「自動生成」される

「救われない状況」は「自動生成」される

>万能の神がなぜ悟れぬ人を救わない
>のですか?

「この世界での《死》を迎える」としても「この世界に《転生》できる」。

「魂は不滅」であり「捨てられる魂」は存在しない。

「悟りに向かってない」ことこそが「見捨てられた」状態であるから...

「この世界によるフィードバック」によって「自動的に導かれる」ことこそが「救い」である。

「無神論+唯物論」を「信仰」して生きていくことを「罰する」わけではない。

ただ「カルマの法則」は「マシンのように公平」だから...

「裁きの心」こそ「悟り、救いから遠い」のだとと気付かざるを得ない状況を「自動的に生み出す」

...ということになる。

「死んだら終わり」ではないから「生まれ変わって」も同じように「苦難」という「フィードバック」を受けることになる。

「この世界の目的」に気づけば「苦しむ必要は全くなくなる」。


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「最も力あるもの」

「最も力あるもの」

「私」は「最も力あるもの」であり...
「至高の存在」であるのだから...
「私」を「傷つける」ことは不可能なのだ
「あなたがた」は「わたしに似せて」つくられたのだから...
「あなたがた」を「傷つける」こともできないのである
「傷つけられることのない神」であるから...
「報復」を必要としないことは理解できるであろう
「あなたがた」も「傷つけられることがない」のだから...
「報復」や「懲罰」というものが無意味であると知りなさい
「この世界」で「人が人を裁く」のを止めず...
「人が人を殺す」のを止めることができないのなら...
「この世界」つまり「このゲーム」を破壊する
それが「世の終わり」と呼ばれたとしても...
「あなたがたは不滅である」と知りなさい


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「主の計画」

「主の計画」

次のことを仮定して話をさせてください。仮定なので、この命題を必ずしも信じる必要はありません。、逆にこの命題の証明も与えられません。

●「最終的には、全ての魂を《全能》にする予定がある」

●「全能な魂が住む世界では《思い》が瞬時に実現する」

●「全能な魂が住む世界を《天国》と呼ぶ」

上記が「創造主」の「最終目的」と仮定します。

この場合に「魂の本質(本心)」として「裁く心」を持つ魂を上記の「天国」に入れるとどうなるでしょうか?

「裁く魂」は:

●「自分が優越する」

●「自分が正しい」

●「あの人は価値がない」

などの「思い」を持っています。

「瞬時に」「思いに従って現実が作られる」「天国」では、一人でも「裁く魂」が入り込むと「瞬間的に世界が崩壊」してしまいます。

「あなたがた」が「神の奇蹟」と呼ぶ「超能力」を与えるつもりで「この世界で学ばせている」というのが「主の計画」なのです。


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「裁く心=カルマ」

「裁く心=カルマ」

「あなたがた」が考えるように「絶対的に悪」という存在はない。

「悪=神から祝福されない存在」とすると、そのようなものは「全くない」。

「悪が存在する」と考えるから「神の代わりに」「神から祝福されない存在」を見つけ出して「裁こうとする」。

「あなたがた」は「歴史を通じて」「裁く対象」を探し続けてきた。

「闘争本能」があるから「戦っている」のではない。「裁く対象を見つける」ことが「人類の使命」であると考え続けている限り...

「絶対に争いはなくならない」

...と言える。

「裁く人間」が持つ「裁く心」こそが「宇宙の法」に照らした場合の「罪な状態」といえる。

「裁く心=カルマ」である。


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「権力への執着」が「諸悪の根源」

「権力への執着」が「諸悪の根源」

>神の奇跡を次々と見せれば誰もが信
>者となり、犯罪も激減する筈です。
>いかが思われますか?

「奇蹟」でなくとも、「この世の権威」が「倫理(法律)+裁判」や「軍事力」によって「犯罪の減少」を試みているのではないか?

何千年も「権力と恐怖」によって「世を治めよう」としてきたのではないか?

それは「神の不在」が原因ではなく「この世の権威=権力」によって、「この世界」を突き動かそうという「意図」が存在し続けてきたからである。

「あなたがた」は「歴史を通して」「大きな勘違い」を続けてきた。


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「人間が神を作った」という人間

「人間が神を作った」という人間

「神が人間を作ったのでは無い。人間が神を作ったのである。」

...などというデタラメを言う「人間」が存在できるくらい「自由度の高い」「バーチャルワールド」を作った。

「神を信じないで」「その結果を刈り入れる」ことも可能である。

どの道...「あなたがたの魂」は不滅である。「死んだら終わり」といって「貪るもの」にも「報いはある」。


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人の「尊さ」に全く違いはない

人の「尊さ」に全く違いはない

「偉い」ということは(何らかの基準において)「優越」するということを意味する。実のところ「優越感」またはその裏返しの「差別意識」「軽蔑意識」を持つということ自体が「悟っていない」証拠となる。

「キリスト」も「宇宙人」も「悟りのレベル」が高いとしても偉いわけではない。「聖職者」や「教祖」が偉いわけではない。「(あなたがたの言うところの)罪びと」が偉くないわけではない。

「超能力」を「信仰」することにより「超能力をもつもの」が「教祖となるべし」という考え方がある。「UFOを作れるほど科学の進んだもの」が「教祖となるべし」という考え方がある。

これらの考え方も間違っている。あらゆる存在の「尊さ」に全く違いはない。


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神の御心の深さを知りなさい

神の御心の深さを知りなさい

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠の命を持つためである」(ヨハネ3.16)

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「私」は「あなたたち」の「親」である。

だから「あなたたち」への接し方は一言で説明がつく。「私」は「あなたたち」の「親」として「親心」をもって接する。

「あなたたち」は(文字通り)「私」である。「あなたたち」の「魂」として「私の一部」が入り込んでいる。

「あなたたち」は「私」の「魂をわけた子供」である。「あなたたち」の体には「私の魂が流れている」。

もし「あなたたち」が「犯罪」と呼ばれるものを犯したとしても「警察」に電話をしたくない、「裁判所」につれていかれることを望まない。

「子供」は「親」を「軽蔑」することがあるが、それでも「親」は「子供」を「軽蔑」しない。「悲しむ」けど「愛する」。

仮に「子供」が自分を殺すことがあっても、「死ぬ間際」には「どうかこの子が警察につかまらないでほしい」と願う。この子が「裁かれたり」「殺されたり」するのだけは避けたいと思う。

「あなたがた」が「宗教と呼んでいるもの」はすべて「子供が親に向ける愛」である。簡単に「親を軽蔑」できるし、「兄弟ゲンカ」をする。「私はあの兄弟より優れている」と言い。「お兄ちゃんをしかってくれ」「弟が悪い」と言う。

「私」は「親」であるが、「どの子が良い子なのか」を決めてほしいわけではない。あなた方に「優秀な子供」であって欲しいと望むわけではない。

「親」になれば分かると思うが、「親」として「あなたの子供」に接するように「他の全ての人」に接しなさい。

あなたの年齢に関係なく「あらゆる人」の「親」であるかのように振る舞いなさい。「自分の子供」を持つ前に、この意味が理解できるのならあなたは「悟り」に近いとも言える。


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汝の敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい

汝の敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい

「汝の敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい」(イエス・キリスト)

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「不正を行う者は益々不正を行い、汚れた者は益々汚れを行え。
義なる者は更に義を行い、聖なる者は更に聖なる事を行うままにさせよ。
見よ、私はすぐに来る。私の報いを携え、それぞれのしわざに応じて報いるために。」
(黙示22.11)

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入っていく者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
(マタイ 7.13)

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」
(マタイ 24.7)

主は国々の間をさばき、多くの国々の民に判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって
剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
(イザヤ書2.4)

この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。
(ゼカリヤ書13.8)


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「あなたに必要な出来事や人物」

「あなたに必要な出来事や人物」

「意識的な選択」を変えたときに「瞬時にものごとが変わる」。

あなたが...

「自分の人生はこうでなくてはならない」
「世の中とは所詮こういうものだ」

...という「硬直した信念」を持ち続けると、「その通りに現実が創られる」。

「カルマ」と(生まれる前に決定した)「大まかな人生のプラン」の範囲内において、自由に「未来」または「次の瞬間に起きること」を変えていける。

但し、「カルマ」と「大まかな人生のプラン」があるわけだから、必ず「あなたに必要な出来事や人物」に出会っているのだと同意することが、最も上手くいくための秘訣であると知っておいた方がよい。


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「この世界の原則」に関する「秘儀」

「この世界の原則」に関する「秘儀」

「宗教団体」に限らず...

「この世界」で「人を裁かない」という人間は少ないから...

「地球上のほとんどの人」が「殺人カルト教団」であると言える。

「あの人は罪びとだ」「あの人は価値がない」と考えることによって...

「本当に人が傷つく」
「本当に人が死に至る」

...という原則を知らないからだ。

しかしながら「この世界の原則」を「秘儀」として知りながら「できるだけ知られないようにしよう」とする企みがあることは心に留めておいて欲しい。

そうすれば「企み」を見抜けるからだ。

「人」は「神と一体」であると思い出して

「人」は「神と一体」であると思い出して

>記憶を消されなかっただけでも感謝
>するべきなのかもしれません。

「あなた」はすでに「記憶を消されている」のですよ。

「神と人」の関係は「親と子」とも言えますが、もっと良い例えがあります。

「私」と「あなた」は「一心同体」なのです。

「地球(私)」は「体全体」です。

「私」は「頭部」で「あなた」は「左手」であると例えましょう。

「左手」である「あなた」が、「頭」である「私」にはむかってきたとすると...

「頭(私)」は「痛み」を感じます。「左手(あなた)」も「痛み」を感じます。
「頭」である「私」は同時に「左手」である「あなた」の痛みも感じています。

「カルマの法則」により「右手(他の人)」が「左手(あなた)」を襲ってきます。「右手」は「他人」のように見えますが「体全体の一部」であり「カルマの法則(愛の法則)」を統御しているのは「頭(私)」なのです。

「頭(私)」を殴ることは少なくても、「左手(あなた)」と「右手(他人)」が殴り合いをしていることは「日常茶飯事」ですよね。

「私」の「体全体」を遠くから眺めると、相当「病んでます」。

「私」の「左手」と「右手」で殴りあいをしているんですから、「相当異常な人間」と見られますよね。

「地球と人間は一体」「人類は神を通じて一体」ということが理解できてないから、「進んだ宇宙文明」から見ると「笑いもの」です。

今のままだと「恥ずかしくて」「他の宇宙文明」には「会えません」。

早く「人」は「神と一体」であると思い出して、「左手と右手がケンカするような異常者」と見られないようになりましょうね。


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「愛の風」

「愛の風」

「この世界」は「愛のルール」で制御されています。

「物理法則」さえも「愛のルール」に司られています。

「愛に基づいた想念」をもって行動するときには「愛の加護」が得られます。

「愛の加護」とは「愛の風」が吹くことです。

「風」自体は目に見えませんが「風が作用する」ことによって何が起きるのかを知っています。

「愛の風」自体も目に見えませんが「愛の風が作用する」ことによって何が起きるのかを知ってください。

「風」が時として「嵐」となって「人を傷つける」ように...

「愛の風」も時として「嵐」のように「人を傷つける」ことがあります。

「愛の風」は「超能力」の秘密であり「奇蹟」をも起こします。

「人」は皆「愛の風」を操る「魔法使い」なのです。


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「ココロは風、コトバは花びら」

「ココロは風、コトバは花びら」

他人のココロを直接見ることはできない。

それは、ちょうど「風」を直接見ることができないようなものである。

でも、そこに「桜の花びら」が舞い降りてきたら...

あなたは「風を見た」というであろう。

「風に舞う花びらを見た」と言う方が「厳密」であるが...

「風を見た」という方が「詩的」であるかもしれない。

「科学的な方法論」ができる前から「風がある」ということは「分かっていた」。

「コトバ」に「感動」したのならば...

その「コトバ」の働きを見て「魂を見た」と言っても良いのではないか?

いつの日か「風」が「空気の動き」であると分かっているように...

「魂とは○○の動き」であると分かるかもしれない...

しかしながら、科学の進歩を待たずとも...

「魂を見た」
「魂は存在する」

...というのは「詩的」であるだけでなく「普通の感覚」であるべきであろう。


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